低レベルの女性蔑視しかもはや残っていないのか
こんにちは。火力不足です。
歌詞に女性蔑視が含まれているという記事ですが、何をいまさらですね。
記事自体が高尚なものでは決してないので、突っ込むこと自体が野暮かもしれませんが、
歌詞には男女とも取り出そうと思えば差別的な表現がたっぷり詰まっているでしょう。あるいは、歌詞に男女しか登場しないことがLGBTへの配慮を欠いているという批判もできるかもしれませんね。
はっきり言ってこんな低次元のことを女性蔑視と呼んでいては本当に根深い女性蔑視に苦しんでいる方に失礼でしょう。それとも、もはやこの程度の女性蔑視しか日本には残っていないのでしょうか?
本日は、この記事の問題点を指摘し、女性蔑視について考えることを目的とします。
目次
・言葉狩りに近い
・蔑視はそのレベルなのか?
・「授」難の時代
・まとめ
・言葉狩りに近い
歌詞というのは表現の一つであり、著しく明確に他者を侮辱する内容であったり、公の電波に乗せて流すことがはばかられるような物騒な表現や差別用語が使われているなどよほどのことがなければ問題のない代物です。
歌詞が酷くて精神的にひどく傷ついた…なんて話はまずありませんし、あったとしてもなかなか同情してもらえる話ではないでしょう。おそらく訴訟をしたとしても敗訴するのではないでしょうか。さすがに放送禁止の差別用語が飛び交うような曲は何らかの是正がされるわけですし、はっきり言ってこれで蔑視だというのは言葉狩りに近いでしょう。
蔑視による禁止を適応しても個人的には構いませんが、そうなると膨大な曲が禁止されるのが目に見えますね。
ただ、実際言葉狩りよりも、女性蔑視の中身の方が気になります。
・女性蔑視はこのレベルなのか?
蔑視か蔑視でないかといわれればまぁ蔑視と考える過敏な人間もいそうだな程度の案件だと個人的には思っているのですが、おそらく多くの方にとっては「どうでもいい」に尽きる案件だと考えます。急いで是正するべき問題でもないですからね。自分に実害のないことですし、蔑視されているという認識もそこまでないのではないでしょうか。
もし、もはやこのレベルの女性蔑視しか残っていないのであれば、もはや女性は蔑視など受けていない強者といえます。どうあがいても日ごろ蔑視されるような弱者ではないですね。本当に弱者ならいくらでも他に説得力のある蔑視が取り上げられるはずでしょう。
それこそSNSがあるわけですから、公的なメディアのみならず、私的なメディアにおいても「こんな時代錯誤な蔑視が…」「男だけ…」のような文が連日溢れかえるでしょうね。しかし、そうはなっていませんし、むしろ見過ごされてきた男性弱者の方が最近は注目されているように思います。
・「授」難の時代
女性が受難の時代は終わったと思います。勿論受難の時期はあったと考えますし、理不尽な蔑視を受けてきた時期もあったでしょう。しかし、少なくとも今は違うと断言できます。今は「授」難の時代です。なぜなら、仕事と育児の両立が云々…という話は、女性の皆さまが社会に出ることを選択なさった結果発生することが予想された事象だからです。女性は社会で輝くと言われるようになったのは本当にこの数年のことでしかありませんが、男女雇用機会均等法・男女共同参画社会基本法などの成立は20世紀の話です。しかも、必要不可欠なため社会進出をせざるを得なかったのではなく、自己実現が原点です。
そこから20年、そろそろ世代が変わろうとしているにも関わらず予想された事象に対して、
男性の補助が足りないというのが提示された解決策なわけですから、男性からすれば単に負担を増やされるだけの提案になってしまうわけです。旧来の男性役割が軽減されることもありません。性別に基づいた旧来の役割を一部負担しあうという提案や、男女とも長時間労働を前提とした社会の構造を変えようという提案ならわかりますが、予想しえた難を一方的に吹っかけてくるのはただのマッチポンプであり、決して受難ではないでしょう。
・まとめ
正直なところ、権力を持った男性による不合理な女性蔑視はまだあると思いますが、それ以外は女性から改善の提案をしうる「区別」でしょう。
それとも、本当に心底どうでもいいレベルの女性蔑視しか残っていないのでしょうか。
参考記事