炭火生存日記

しぶとく生きるためのブログ

サポーターは写し鏡

結局正直なもので、負けが込むとサポーターとしての在り方や、まだ見ぬ選手への希望といった、勝ち負け以外に価値がありそうなものを見つけてしまうのです。

こんな状況でも営業収入を増加させるために様々な手を講じている営業の皆様には本当に頭が下がります。

 

ここ2年間で、主に疲労からくる閉塞的な敗北を迎えた時には監督への非難や過酷すぎる日程・弁当生活への嘆きはあったものの、サポーターとして信じるといった信仰的な4-5年前の遺物を掘り起こすことはありませんでした。

 

なぜなら、ピッチ上で起こる出来事に集中し、そこで採用されている一貫した考え方である「失点の要因となるリスクを極限まで減少する」という方略に対し、達成するための方法をあれこれ談話していればよかったからです。勝利という望ましい結果を実現するにあたって、ボールを保持する(あえて相手に押し付ける)・実績に乏しいがコンディションのよい選手を起用する、といったリスクの塊に対し、ああでもない、こうでもない、こうしていればよかったと時に愚痴をこぼしながら上位争いをしていたこの2年間は本当に平和でした。

 

一般人では手に入らない情報を膨大に保持しているプロが様々な事情を勘案して決断し、相手がいる勝負事を実施しているわけですから、素人でも思いつくようなことはほぼ間違いなく検討し尽くされています。そのうえで結果論として外れることもありますが、基本的にはリスクの取り方の比較衡量から大きく逸脱することはありませんでした。何より、選手の市場価値が上がり、日本代表へ選手を送り出せるようになり、1-0になれば「まぁ勝ったな」と大抵思える状態では、信仰が加味されるごく一部の方々を除けば、わざわざサポーターとしての在り方を考える必要がありません。

 

ただ、我々はすでにこの道を少なくとも一度通過しています。

出場していない選手の評価が上がり、もどかしい現実に対し虚構が祭り上げられ、起こっていないことがあたかも起こったかのように評価され、今は種を蒔く時期でこのまま継続すれば名古屋らしさを手に入れられるとかつて信じ続けたことがありました。

バブルのごとく積み上げられた期待に対し、結果遺産になると信じられ続けた夢は夢のまま霧散したわけですが、いつの間にか過去を振り返る際にしれっと「攻撃」が成立したことになっているのは気にかかります。

無失点記録を樹立し、優秀選手やベストイレブンに複数人名を連ね、DAZNでのプレビューや紹介、他クラブのサポーター様の分析など数々の場面で「堅守」名古屋と評されるようになったのは紛れもなく現実であり、愛してやまない継続に基づいて実現した名古屋らしさに他なりません。

もはや過去の話ではありますが、こうした「守備」と愛してやまない継続性のない胡蝶の夢が如き「攻撃」を一列に語るのは、確信犯的な伝統芸能とはいえもやもやしますね。「若手の起用」も似たようなものですが。

伊藤洋輝選手のFW起用&30分交代は今も覚えている 無事ドイツへ羽ばたいて本当に良かった

 

 

結局、応援するクラブにかかわる選手をはじめとした皆様の努力が結果として報われて喜ぶところが見たいのであって、報われ方としてわかりやすいのが勝利であり、選手らの市場価格が上昇することであり、タイトルを取ることであったりするわけです。

優越感を得られるというサポーター個人の感情によれば、他クラブのサポーター様から○○選手っていい選手だねと評価されるとか、クリーンなチームだねと言われる等がわりやすいでしょう。

一方で、必死に気を利かせた結果かえってひどい目にあったり、失点の責任を問われ批判にさらされたり、難しいシュートシチュエーションしか用意されず、そもそもまともなチャンスを与えられないという状況は、個人の頑張りが報われない一例です。こうした惨状が応援しているクラブで続けて発生すると、仕組みや枠組みで守られないことによる弊害という多くの方が日常で直面する疎ましい感覚をわざわざ間接的に共有するという、大変ありがたくない思いをすることになります。

別に毎試合負けても市場価値が鰻登りに上昇していくのであれば敗北も悪くはないのですが、残酷なことに往々にして、敗北よりも勝利のほうが自信等身につき、残るものが多いのです。

こうした頑張りが報われない状況で、長い目で見てどうなったかという結果を、改鋳したことはあっても忘れたことはないでしょう。

 

自戒も込めて、経験からではなく歴史から学びたいものです。

3分の1を疎かにして、34試合の継続がなされるわけがありません。勢いはシーズンのどこかで一時的に隣を歩けばラッキーなものであり、継続してずっと隣にいることはあり得ないのです。もしずっと隣にいたとしたらそれはもはや勢いとは呼べません。