やりたくてやれることをやれない不幸
こんにちは。火力不足です。
募金を少額でするのに恥ずかしさを感じるという記事です。まぁ中にはそういう方もいるのでしょう。確かに金額の多寡ではないとはいえ、他者の金額を知ってしまうと恥ずかしく思えてしまうという方はいらっしゃるでしょう。
だからこそ、こうして金額の指標を知ることで負の感情を覚えないようにするということは有用な手段のように思いますね。
ただ一方で、周りを知ることでかえって不幸になるという人も一定数いるように思います。基準を知ってしまいそれに届かない自分を恥じるということでしょうか。
本日は、知ることによる不幸と、動けない不幸について考えることを目的とします。
目次
・募金の話
・知ってしまう範囲が広がった
・まとめ
・募金の話
募金についていえば、「自分の余裕と気分次第」でしょう。金銭的に余裕がなくても精神的に余裕があるのなら人助けをすればよいでしょうし、1円でも100円でも10000円でも募金の意志そのものに変わりはありません。自分ができる範囲でできることをすればよいのですし、義務ではないのですから誰にも批判できません。もっとも、日本人全体として募金ができるような様々な余裕は取り戻したいですがね。
少額の募金に恥ずかしさを感じるのは正直お門違いでしょう。少なくとも無視するよりは意義があるでしょうし、偽善者というのは言葉を間違えているでしょう。募金を強いるようならそれは偽善者かもしれませんが、個人の範疇で自由に募金をして偽善者というのは意味が分かりませんね。
余り他人を気にしすぎるのも苦労しますね。
・知ってしまう範囲が広がった
インターネットにより、知らなくてもよいことや知るべきではない標準・基準を知ってしまうようになりました。正直上記の募金する値段など、基準を知って何か変わるものでもないでしょう。誰かが10000円募金していたら自分も10000円募金しなければならないと考えるのかと言えばそんなことはないでしょう。知ってしまうことで無駄に悩み、他者と比べ、意味のない劣等感に苛まれることになります。
そして、意味のない劣等感や他者との比較は、自分自身から行動を奪います。「こう思われたらどうしよう」という、自分自身の評判を気にして、知ってしまった基準を勝手に用い、自分自身を縛ることになります。募金にしても人助けにしてもそのほか自分のためのことにしても、上を見すぎても下を見すぎてもきりがありません。やりたくてやれるのにやれないという不幸に直面するのが知りすぎることの弊害といえそうです。
・まとめ
自分がしたいことは自分で決めればよいですし、募金や人助けは他人に言われてしぶしぶするものではないでしょう。しぶしぶするにしてもしないよりはましだとは思いますがね。
正直なところ記事にするような話でもないように思いますが、精神的な余裕抜きにこうした話ができるのならまだまだ平和で良いですね。少なくとも不平等を露骨に示してくる記事よりは精神衛生上よいです。
また、個人的には100円の募金をすることは恥ずかしいこととは思いませんが、大人として恥ずかしいと言い切って基準として提示してしまうのは恥ずかしいと思いますね。