分かり合える相手がたまたま異性かどうか
こんにちは。火力不足です。
恋愛至上主義に対して疑問を呈する記事となっております。まあ恋愛しない人間に対して人格を疑うのは良くありませんよね。個人的にはこうした流れは歓迎します。
恋愛も数ある娯楽のうちの一つであり、そうした娯楽で楽しむことは否定されるべきではないでしょう。ただ、それと同様に、楽しまないことも否定されるべきではないでしょう。
しかしながら、女性様旋風が吹き荒れたこともあり、つい数年前まではこうした恋愛しない選択は敗者の選択として揶揄された覚えがあります。時代も変わりましたね。
本日は、恋愛の娯楽性と限界について考えてみることを目的とします。
目次
・承認を得られる
・生まれもったものに依存する
・まとめ
・承認を得られる
他者から好意や信頼を得られるのは多くの方にとって喜ばしいことといえます。ここにあまり性別は関係ありませんが、承認を得られることによる嬉しさのベクトルは同性か異性かで異なるでしょう。たまたま異性だったらそれはそれで同性から得られる承認とはまた別の嬉しさがあるでしょうね。それが自慢をしたくなるもとになるのかなと思います。その結果、恋する自分を好きになりすぎてしまい、相手をないがしろにしてしまうこともあります。
ただ、日本という国の文化は、男女が会えばハグしてキスして…みたいな非常に積極的な交流を前提にした文化ではありません。そのような積極的な交流を恋愛に望む層も少数派でしょう。基本的には受動的に待ちの姿勢をとるのが特に女性に顕著に見られますね。
ただ、そのほか多くの娯楽と同様、恋愛にも万人向けとは言えない要素があります。
・生まれ持ったものに依存する
恋愛の難しい点として、生まれ持った要素によって楽しめるかが変わるところがあります。運動などもそういった要素はありますが、特に恋愛は容姿と家庭環境に基づく会話力と身体能力に大きく依存します。こうしたものを(偶然)持っている方にとっては、恋愛のハードルは低く、楽しいと感じるものになりやすいでしょう。そして、その楽しさを共感したり、勧めたいという思いから、恋愛を娯楽としない人間に対し、奇異の目を向けたり、努力すればいいという声をかけるのかもしれません。
しかしながら、恋愛を娯楽としない人間はそもそも機会が訪れません。生まれ持った能力により圧倒的にノーが突き付けられます。しないのが先かできないのが先かはわかりませんが、できないことを残酷に突き付けられた結果しなくなるのでしょう。恋愛ができない以上、良い経験は当然ありません。やったことないものの良さは基本わかりませんからね。異性と関わってよい思いをするということは一応プラスに働くと思いますが、友人としてもいられるので恋愛に直結するとは言えません。一方、悪さはいくらでもあります。自慢話やのろけを聞いたり、上から目線のクソアドバイスを聞かされたり、そもそも異性と関わって悪口を言われたり、責任をなすりつけられたりなど悪い経験の方がむしろ思い出せるといった様々な要因があります。
そもそもいい経験をしたこともなく、自分が持っている能力はどうやら向いてそうにない、加えて努力しても実るかどうかは非常に怪しく、金銭はかかることが予想されます。よほどの魅力を感じない限り、こうしたフィールドに飛び込もうとは思わないでしょう。そもそもどうして努力してまで飛び込みたいと思えるのでしょうか?
何を楽しいと考えるかは人それぞれですし、まぁ恋愛をするかしないかならしておいたほうがいいでしょうが、それはどの娯楽も一緒のことが言えるでしょう。
・まとめ
インターネットで世界が広がり、自分の興味のある物事や似た趣味を持った方を非常に探しやすくなりました。その結果、楽しいことはたくさんでき、いい意味で恋愛以外も楽しむ道が拓けました。恋愛が退屈とは全く思いませんが、他の娯楽同様、人を選ぶものであることは間違いないでしょう。そして、人格を否定できるほど高尚なものでもないでしょうね。
分かり合える人間が多いことは素晴らしいこととして間違いはないと思います。ただ、その性別に貴賤はないとも思います。