炭火生存日記

しぶとく生きるためのブログ

物を断捨離すると、次は人が断捨離される

こんにちは。断捨離する理由が全く理解できない火力不足です。

 

先日「今日で捨てましょう」という番組で夫の所有するプラモデルを断捨離するという企画があったらしく、まぁ案の定正常に炎上しております。ただ、ネット黎明期の伝説のコピペに「鉄道模型を捨てたら夫の様子がおかしい」という、断捨離の悪影響を示す先例が(真偽はともかく)あるにもかかわらず時代は繰り返しています。

 

しかし、断捨離による悪影響がこれだけ騒がれているのに、一向に改善が見られないのは、どこに原因があるのがが気になったので、そこをまとめてみようと思います。

 

本日は、断捨離の定義から、効能と欠点を明らかにすることを目的とします。

 

 目次

・断捨離とは?

・効能と欠点は?

・概念が悪用されている?

・今回の件は?

・まとめ

・おまけ

 

・断捨離とは?

そもそも、断捨離というのは、やましたひでこ(山下英子)氏の著書『新・片づけ術「断捨離」』において発表された「不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想」のことを示すようです。

 

引用(Wikipedia より)

断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、

 

   断:入ってくるいらない物を断つ。

   捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。

   離:物への執着から離れる。

 

として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。

 

こうした本来の意味から考えると、使う見込みがないのに、「いざという時のため…」を言い訳にして物をため込むことは、いずれ自分自身の快適な空間も圧迫してしまい、知らず知らずのうちに重荷になり心身を害してしまう。そのため、断捨離という概念を著者は提唱したというのが適切ではないでしょうか。

 

・効能と欠点は?

効能としては、自分で決断した場合心身の重荷を取り払えるところでしょう。また、不要なものを断つことにより、余計な出費も減らすことができますね。おそらく著者本人もこのような意図をもって断捨離を提唱したのだと考えられます。逆に、欠点としては割り切って捨ててはみたものの後悔する、という覆水盆に返らずパターンを起こしてしまいやすいのが欠点になるのでしょうか。使う見込みがないものを捨てるはずなので本来は起こりえない事態ですがね。

 

・概念が悪用されている?

ここまで書いて気になったのが、「断捨離」という言葉が独り歩きし、捨てることを格好よく言い換えているだけではないかという疑念が浮かび上がってきました。もちろん、一人で決断できないことに対し、周囲が助言であったり、受けている悪影響を伝えることで改善を求めることは重要ですが、最終的に決断するのは本人でなければなりません。加えて、雰囲気に流されることなく、確固たる自分の意志で決めなくてはなりません。そうでないと全員が後々不幸になるからです。多分この件のご家族も揉めるんだろうなぁ…。

 

・今回の件は?

人が大切にしているものを無断で捨てるのは人間としての尊厳も同時に捨てていますが、今回の件は、周囲から捨てざるを得ない雰囲気を作って本人に捨てると決めさせているので、もっとたちが悪いですね。こんな納得できない形で終わって事態が好転するのかは賭けに近いと思います。ご家族の日ごろの積み上げが試されますね。しかし積み上げがないからこそコミュニケーション不足で今回の結果に至った気がします。それこそ、日ごろ自分たちが不快であることしか伝えられていなかったんだろうな…、というのをひしひしと感じます。例えば、貸しコンテナの提案・よりプラモ熱のある方にオークションなどで売るなど、ある程度円満に解決できそうなやり方がある中で、よく炎上必至の手法をとったものだと感心しますね。もしかして炎上商法なのでしょうか。

 

・まとめ

断捨離は自分自身で向き合い、納得して自分の手でするからこそ効果が得られるものだと思います。断捨離の名を借りたDVはやめたほうが身のためですね。

 

・おまけ

私自身も今回の件を見て、次は妻と娘の断捨離かなというのは考えましたが、「バンダイテレビ東京を断捨離しそう」という意見を見かけ、なるほどと思いました。また、断捨離が断(わりもなく大事な私物を勝手に)捨(てられるというのなら物理的に)離(れて暮らしましょう)の略だという意見もあり、こうした形で、一方的に捨てた因果がめぐってほしいと思います。自分の大切なものを邪険に扱った、という前例を知ってしまうと、そうした人間のために頑張ろうという気力は起こりませんからね。