炭火生存日記

しぶとく生きるためのブログ

札幌戦で示した理想と教訓

早くも5節が終わりました。3勝2敗で終えるのと、4勝1敗で終えるのとでは様々な点で異なりますから、札幌戦での勝利は大きな一勝でした。

 

一試合だけでは偶然か必然かなどほとんどわかりませんが、450分あれば少しは一貫してくるものがあります。これが900分、1350分になり、2960分間を戦いぬいた後に何が積みあがっているのでしょうか。

今から楽しみで仕方がありません。もう理想を妨げるものは何もないのですから。いかにシーズン中に手札を増やし、悪いなりにも失点せずに勝てる試合をするかに注目していきたいですね。

 

そのうえでカギになるのは、相手ピッチ中央の使い方でしょう。バイタルエリアだとか、エリア14だとか表現される箇所ですね。 

 

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FC東京さんとの試合後の記事ではありますが、外に逃げるという言葉が印象的ですね。

逃げるという言葉にはどうしても後ろ向きな感覚が伴いますが、要は外を使うか、ピッチのどこを使うかという話です。それをチーム全体で共有しているかということです。

一方、中で勝負すると言えば聞こえはよいですが、その実態はどうなのでしょうか?

正直この2年を振りかえると、中できちんと勝負して結果的に実り救われた試合よりも、中に固執して掬われた試合のほうが記憶には多いですね。特に、堅牢な守備組織をきちんと崩し切った試合というのはほとんど思い浮かびません。アバウトなボールを前線の煌めきで「何とかした」シーンはいくらでも思い当たるのですが。

セレッソさんとの試合での赤崎選手の2点はいずれも崩し切ったというよりは、崩れている状態を突いたという表現のほうが適切です。札幌さんとの一点目も、中盤の高めの位置で奪えた時点で名古屋の選手が4人前線におり、札幌さんの3人をすでに上回った状態でした。あの時点で勝負ありでしたが、そのチャンスをモノにできる個人の力を有しているというチームの強みが発揮された良いシーンだったと思います。

 

ただし、強みは弱みと表裏一体です。

札幌戦では前線からのマンマークプレスといえそうなしつこい追い回しが嵌まりましたが、剥がされるとき、暑さで追い回せない時も来ます。また、そもそもプレスのタイミング自体が個人に依拠しているせいか、個人が頑張るだけの特攻になってしまっている場面も少なからずありました。攻守一体といわれつつ、足元にボールがない時なかなか目が揃わないのは、鋭い他クラブさんであれば間違いなく狙ってくるでしょう。

 

 

 味方の目を揃えるより先に、「名古屋はここを押さえておけば間違いない」と相手の目が揃っていませんか?目が揃うのは自分たちだけだと思っているのならそれは間違いなく傲慢です。 

自動ドアではないお相手の守備を割るには、どこかで誰かがリスクを冒す必要があります。止めて蹴るを完璧にこなせばリスクなど不要だ、とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、「名古屋の○○選手は特定の位置にボールを一度止める」とわかってさえいれば、相手は迷いなく当たれます。その時点で止めた位置は「自分がなんでもできる位置」ではなくなります。止める蹴るの主語は一人称ではありますが、相手の位置や体の向きといった情報を入手し、処理するという観点なくして、適切な位置に止められることはありません。

 

勿論正確に止めて蹴ることも一つの手段ですが、それだけでははっきり言って足りません。正確に止めた結果、時間的・空間的・精神的な余裕を錬成できたとしても、どこに蹴るかを止めてから考えていてはむしろマイナスです。

さすがに現在の「止める蹴る」にあらゆる余裕を錬成するための情報処理を並行して行うまでの含意はなされていないでしょう。

 

また、「蹴る」についても、札幌戦の3点目のように、パスの強弱を使い分けているシーンはまだまだ数えるほどです。どこで誰がリスクを取り、ほかのプレイヤーを助けるプレーをするかが規律としてまだまだ緩慢なため、良い時はplay for allが実現し、好循環に至れますが、悪い時には仇となります。

これはうまくなるだけでは解決しない問題です。ただ、そもそも「うまくなる」とはどういうことなのでしょうか?
明確にできることが増加しない限り、うまくなるは「時間がたつ」「サッカーボールを触る」「日常を過ごす」くらいの意味合いしかありません。人間生きていればできることは増えていきます。家でゴロゴロしていようとも、長時間同じ体勢でいることに身体が馴化していくので、長時間の負荷に耐えられるよう進化しているとさえ言えます。
すべての行動は進化です。ハーフコートサッカーをしていれば近い距離にいる味方を把握する能力にたけていく一方、遠方を見る能力や強いキックは落ちていくでしょう。使わない能力は強化されません。我々の日常生活でもそうでしょう。喋らなければ、言語能力さえ低下していきます。 

 

 

そして、うまくいかないときに必ず出てくるのが、精神論です。

精神状態が良いというのは非常に重要なことではありますが、ただ単に臆病や恐怖を克服しようだとか、ブレーキを壊そうといっても話は進展しません。

 

というのも、他でもない風間氏がシーズンオフのインタビューで「自分自身が臆病だからこそ攻撃的なサッカーを志向している(意訳)」といった発言をなさっていました。恐怖しているからこそ攻撃的、積極的になって恐怖を覆い隠そうとする人もいるでしょうし、恐怖と静かに向き合う人もいるでしょう。あるいは、恐怖でまともな判断が難しくなってしまう人もいることでしょう。

そんな人ごとに異なるものでは語れません。精神状態がどうであれ、現実として出力されているもので判断せざるを得ません。

勇敢になればいいとも言われますが、勇敢さも度を超せば蛮勇に他なりません。その行き過ぎた蛮勇の尻ぬぐいを強いられるのは誰でしょうか?

そもそもなぜ恐怖するのでしょうか?未知のもの、わからないもの、自分の身に危機が明確に迫るものといろいろありますが、一番は孤独ではないでしょうか。 

 

11人でサッカーをしているはずなのに、自分が奪われた瞬間自分で守るしかなかったらどうでしょうか。自分のミスが敗北に直結するとすればその恐怖は尋常ではないでしょう。また、相手がどういうチームで何をしてくるのかわからなければ、不気味さも相まって少なからず恐怖もあることでしょう。あるいは、ミス自体が恐怖を喚起してしてしまうこともありますね。失敗が行動を鈍くしてしまうという事例は古今東西いくらでもあります。

 

となると、恐怖しないためにできることがわかってきます。

恐怖しないためには、

 

・自分ひとりではないと肌で実感すること(特に守備時)

・相手をあらかじめ知り、未知の要素を減らすこと

・ミスが起こりづらい構造を作っておくこと

が重要と考えます。

 

一時期酷かった日本代表での川島選手への批判を思い起こすとわかりやすいですね。味方がさぼってミスをした分まで不利になり、最後守れないと低評価を受け、心無い誹りさえ受けることがあるとすれば、その恐怖は途方もないでしょう。あそこまで酷いものではなくても、軽度なレベルでは十分起こりえる話です。出しどころのないボール前進フェーズで、パスミスをしてしまった選手を咎めるサポーターは、名古屋に限らず幾度となく負けるたびに出没しますからね。

 

よって、今後の進化として、「そもそも恐怖しないための策を尽くしているのか?」と「言動と行動は一致しているのか?」という点が重要になると考えられます。恐怖してしまったと判を押すような言い回しで逃げるのではなく、何が恐怖を導いたのか?どういった構造が恐怖を生み出してしまったのか?なぜ一人の選手に過大なリスクがかかってしまったのか?を深堀りしていきたいものです。

 

札幌戦での2点目が、博打の如く偶々嵌まったからではないことを証明してほしいものです。 相手にとって不利な選択肢を淡々と突き付け、ゴールエリアを抉り

「ゴールかオウンゴールか選べ」

と冷酷に繰り返し突きつける姿を見たいですね。

そのためには、「うまくなる」とか「技術」とかの包括的でどうとでもいえそうな言葉に安住するのではなく、表では安住しつつ、裏では緻密にボールを保持できる構造を構築していくべきでしょう。

 

それこそが、継続することの最たる意味ではないでしょうか。

 

首位の味は蜜の味です。