炭火生存日記

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サッカー日本代表ベルギー戦の雑感

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こんにちは。火力不足です。

 

今朝日本代表のベルギーとのサッカー親善試合が行われ、0-1で敗北しました。結果的に欧州遠征は連敗という結果に終わってしまったことで、特定の選手へのバッシングや監督批判が相次いでいます。負けてもともとの試合で負けて批判が噴出するのは本当に謎です。イタリアに出場権を譲りたいとかいう戯言が出るのも本当に謎です。どうして自国のサッカーに誇りを持てないのでしょう。どうして親善試合に一喜一憂するのでしょう。

おそらく、勝っていたらそれはそれで「相手は本気じゃなかったから参考にできない」とか言われるのでしょう。批判のための批判ですから、建設的なはずがありません。

しかしながら、親善試合の結果は本番の結果を保証しませんし、グループ分けや今後の負傷やコンディション維持など様々な要素は蓋を開けるまでわかりませんから、現状の出来を糧にして期待することしかできないでしょう。

 

本日は、2つの親善試合を通して思ったことと、批判に対するカウンターを述べることを目的とします。

 

 

目次

・無意味な不要論

・負担のバランスが変わっただけ

・まとめ

 

・無意味な不要論

試合結果が芳しくないと必ず出るのは、○○選手はもういらないとか使えないというような不要論です。しかしながら、一試合である選手について必要不要を断言できることはまずありません。もっと言えば、格上との勝負で生きる選手・格下相手に生きる選手・窮状で冷静な選手・ボールを持つ展開で生きる選手など特徴は多岐にわたります。実際、この2試合の親善試合で不要論が出た選手は以前のアジア予選での救世主ですし、無責任なマスコミによって世代交代の旗手とも揶揄されたりしていました。恐らく、今回の親善試合で評価を上げたと思われる長澤選手や槙野選手も、また別の機会に低調な出来であれば心ない批判を受けるでしょうね。

また、アジア予選で酷評され、世代交代を騒がれた香川選手・岡崎選手・本田選手といったベテラン勢を待望する声が再び上がっています。かつて酷評した人はどこへ行ったのでしょうね。あるいは、内田選手のように、親善試合と割り切ってギアを意図的に上げない選手もいます。もちろん対戦相手にもいる可能性があります。そういう選手に全力投球を強いるのでしょうか。

そもそも、ブラジルとベルギーを相手にしてパフォーマンスが芳しくなかった選手を除外していたら、ごく一部の強豪国を除いて選手もチーム編成の時間も足りなくなるでしょう。それこそ出場権を譲りたい対象らしいイタリアでさえ選手不足に苛まれるのではないでしょうか。そんな贅沢なことを言える国はほとんどありませんし、日本はどうあがいてもそういった立場の国ではありません。

 

・負担のバランスが変わっただけ

前回親善試合でベルギー戦に勝ってしまったことで余計に批判が増えている側面がありそうですが、前回の試合も別に順風満帆だったわけではありません。川島選手に対する心ない批判を加速させた試合でもあります。確かにあの試合の川島選手(と酒井高徳選手)のミスは軽率ではありましたが、その原因は明確です。攻守のバランスがおかしく、過重な守備負担がかかっていたからですね。攻撃が魅力的に行われていたその傍ら、守備陣はそのあおりを一心に受けボロクソに批判されていたわけです。

そして、今ハリルホジッチ監督の下で起こっているのは、その反対のことです。攻守のバランスが守備に寄りすぎているため、タスクオーバーで攻撃を完結できない攻撃陣がボロクソに批判されているわけです。ちなみに中盤は攻守両面の貢献が求められるわけですがそんな万能選手はそうそういないので、大抵物足りないと言われます。

見る側が4年前の咎を学習せず繰り返しているのは興味深いですね。好きに攻撃をやれば後ろに負荷が過剰にかかるだけですし、守備に偏重しすぎれば前に過剰に負担がかかるだけです。構成自体がもともといびつなので、圧倒的な個がいるか、緻密な組織を構築しないかぎり歪みをごまかせないのですが、現状そのどちらも実現しないまま構造上負担を背負う側の選手が容量オーバーで低調なパフォーマンスになるたび批判されるわけです。

 

・まとめ

今やっていることはまさしく「自分たちのサッカー」の反対です。その結果がどうなるかは本大会を終えるまでわかりませんし、この4年間の集大成の結果により、日本が舵を取るべき方向を決めるべきだと思います。そのため、今監督解任をほざくのは完全に無駄でしょうね。それで変わるのならとっくに日本は強豪国になっています。

現状では、負担が攻撃陣・守備陣のどちらに過重に行くかの問題であり、構造上割を食ってしまっている選手が批判もされるというなかなかブラックなことになっております。仕事で言えば、絶好調時のみこなせる仕事量を普段から要求され、「なんでできないの?」と叱責されているようなものです。

見る側、応援する側の人間としては、課されているタスクの過多も考慮して見られるようになりたいものです。